古代ギリシアと社会学古代ギリシアと社会学
−マルクス・ヴェーバー・デュルケム
ジョージ・E・マッカーシー
樋口辰雄 / 田上大輔
A5判 326頁
ISBN978-4-86031-145-2
価格本体3500円+税
発刊2017年1月発売

内容
 本書は19世紀社会理論の根源を古典期ギリシアに求め,古典的ヒューマニズムの影響下にあったカール・マルクス,マックス・ヴェーバー,エミール・デュルケムの理論の再定位を行う。彼らがギリシアの哲学,芸術,そして政治から受けた刺激は看過されてきたが,社会理論家達が忘れてしまった古代の人々の夢や失われた地平を掘り起こし社会学と哲学の密接なつながりを明らかにすることによって,現代社会科学の方法,理論,アプローチへの新しい洞察を提供し,社会学の本質と役割を問い直す。

原著
Classical Horizons: The Origins of Sociology in Ancient Greece
George E. McCarthy. State University of New York Press, 2002.

目次
謝辞
序言 啓蒙主義批判と古典古代への回帰
第1章 カール・マルクス−アテナイ型民主政と経済学批判
デモクリトスとエピクロスにおける学問と自然
自然・実践・社会的客観性
古典的欲求と新古典主義美学
古代の民主制と近代の民主制
『資本論』におけるギリシア人の社会正義と経済学
生産の合理化と資本の論理
ギリシアの自然学とマルクスの弁証法的科学
古典古代と古代的生産様式
第2章 マックス・ヴェーバー−ギリシアの悲劇と社会の合理化
古典古代と古代資本主義
ギリシア・ポリスにおける資本主義と民主政治
ローマ帝国の衰亡と近代資本主義の興隆
ニーチェとギリシア悲劇の起源
存在論的ニヒリズムと科学の遠近法主義
西洋科学の歴史−プラトンから現代まで
実証主義の預言者たちと科学の政治
合理化と理性の腐蝕
古典的ヒューマニズムと歴史学派経済学
第3章 エミール・デュルケム−ギリシア・ポリスと集合意識による連帯
アリストテレス,モンテスキュー,そして社会学の基礎づけ
社会の起源−ルソーとアリストテレス
認識論と存在論−カントおよびショーペンハウアー
プラトン的合理主義とプラグマティズムの詭弁
社会的認識論としての集合表象
ギリシアの連帯と近代のアノミー
古典教授学と近代政治学
社会民主主義を告げる古典的正義
第4章 覚醒させる古典的な夢−古代の正義と近代の社会科学とのジンテーゼ


「訳者あとがき」に代えて−『儒教と道教』とニーチェ  樋口辰雄

著者・翻訳者紹介
ジョージ・E・マッカーシー
ケニョン(Kenyon)大学(オハイオ州・ガムビアー)教授(社会学)
樋口辰雄(ひぐち たつお)
1945年 岡山県高梁市生まれ
1970年 慶應義塾大学経済学部卒業
1974年 慶應義塾大学大学院社会科学研究科(修士課程)修了
文教大学,富山国際大学,明星大学など幾多の大学で教育と研究に従事。専攻:社会学,西洋社会史
田上大輔(たがみ だいすけ)
1979年 神奈川県相模原市生まれ
2012年 東洋大学大学院社会学研究科社会学専攻博士後期課程修了〔博士(社会学)〕
東洋大学非常勤講師,獨協医科大学付属看護専門学校非常勤講師

訳者より
 本書と類似した訳書としては,ジャンフランコ・ポッジ(田中治男・宮島喬 訳)『現代社会理論の源流―トクヴィル,マルクス,デュルケム』(岩波書店,1986年)などもあるが,そこには,古典社会学のみでなく,現代社会学にとっても無視できない,マックス・ヴェーバーの遺産が見かけないことなどから,マッカーシーによるこの書を世に送り出すことにした。訳者(の一人)はある時期から,なぜギリシアのもつ重要性を社会学――より正確には古典社会学――は注目しないのか,とこう思うようになった。本書はまさにこのイッシューを対象にしていたのである。ところで,訳者は,勿論マルクスの専門家ではないけれども,間接的にマルクスと関連する歴史の激動を目撃してきたので,ほんの少しながらそのことに触れておきたい。
 1960年代,高度経済成長とその負の面である企業の「公害問題」(外部不経済),ヴェトナム戦争,内外の大学紛争等々を片目で見やりながら,学生時代を過ごした者からすると,総合的社会科学の一つであるマルクスの(批判的)学問を避けて通ることは,不誠実と思われる時代状況であった。他の著者らとともに,マルクスの諸著作を熟読(不完全ながら)することは良心ある青年たちには,どうしても避けがたい通過点であった。しかし,マルクス(その他の)思想の延長線上にある社会主義諸国が内包する官僚主義的「殻」現象や東欧圏に対するソヴィエトの軍事的介入,共産党一党支配下における多数の人間に対する拷問・虐殺などを合わせて目撃してきた とき,「批判理論」と「マハトの実践」から帰結するパラドクシー現象は複雑であった。その一方,ソヴィエト連邦の崩壊,新自由主義化,「帝国」化,経済のグローバル化が昂進するにつれて,資産「格差」,若者やシングルマザーの「貧困問題」,非正規労働者の激増等が生じてきている。そうしたことをきっかけにして,再びマルクス思想,「資本論」などが着目され,読み返されてきていることも確かだ(アントニオ・ネグリ『マルクスを超えるマルクス』,デヴィッド・ハーベイ『〈資本論〉入門』,佐藤優『いま生きる「資本論』,柄谷行人『世界史の構造』その他)。しかしながら,60年代,70年代の激動期をかいくぐって来たすね者からいうと,『資本論』講解や国家論,宇野経済論などは(未熟なままに)散々論じてきたこともあって,アレッまたか,という印象はどうしても拭い難い。本書第1章の「エピクロスのメテオーレ論・自然哲学」に関するマルクスの分析=「マルクスとギリシア」の方に,一層の新鮮さ,可能性を覚えるのである。その意味で,第1章・第2章で扱っているマルクス (労働の疎外),ヴェーバー,ニーチェと,「古代ギリシア」の関連を別の角度から論じている,ハイデッガーの弟子であるハンナ・アーレントの『活動的生』(英語版訳でなく,ドイツ語版訳)は,哲学的「世界疎外」などをはじめとして,じつに啓発的で有益な諸視点を提供しているのである。味読すべき一文献であろう。また最近出た山本義隆『私の1960年代』(金曜日,2015年)にも感慨深いものがある。今では山本氏とは思想的立場を同じくしないが,しかしある時期(1968年),「物干し竿!物干し竿!」と叫ぶあの空気をともに吸っていたのかと思うと,なにか懐かしさを感ずる。その延長線でのことか,『自主講座「公害原論」』(宇井純主宰,1970年)の集会がおわり,工学部校舎外の芝生の上で,皆と,『谷中村滅亡史』の著者・荒畑寒村氏を囲みながら話し込んだことも,忘れがたい思い出である。
第2章に関連して,日本のヴェーバー研究についてひとこと。大雑把に言ってしまうと,敗戦期からのヴェーバー研究を第T期とすると,現在進行中の『ヴェーバー全集』がすべて刊行され,これらが邦訳され尽くすことによって,専門家だけでなく,一般の人々もヴェーバーに気軽に近づけるようになった時,筆者は,25年から半世紀,場合によってはワン・ハンドレッド・イアーズくらい要するしんどいこの翻訳作業を,第U期と呼びたいと思う。『マルクス・エンゲルス全集』と比べてもなんらの遜色もない『マックス・ヴェーバー全集』がでそろった時,ヴェーバー研究の「啓蒙期」とでもいうべき戦前から戦後までに公表された全ての諸論文や諸著書が篩(ふるい)にかけられ,「残されるもの」と「残らざるもの」に仕分けされ,そうした選別により「残されたもの」は,新たなフォルシュング(研究)に引き渡され,さらに進化していくのである。そうした重責を担って坂を登って いるヴェーバー研究者たちが,今,この地・日本に現れつつあるのである。マルクスやヴェーバーやニーチェのような思想の達人を相手にするとき,それを自分の頭蓋に無理やり押し込んで矮小化することは,いかにも危険なことである(自己反省を込めつつ)。「学のための学」にならぬようにするには,古今東西の,一見無駄と思われるヴェーバー以外の作品をたくさん読み,それらを自らの「栄養」にしておくことが望ましい。また,誤りやミスや読み違いも,恐れるべきではない。人間は万能ではないのだ。自らの誤り(他人からの指摘により)に気づいたとき,学問的な誠実さに即して修正していけばよいのだ(大塚久雄訳「中間考察」に出てくるザッヘSache(事柄,物,仕事)とペルゾーンPerson(人格)は,その発想の源をいきなりニーチェによりも,カントに求めるべきでないかと思うようになった)。


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